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没雲台

没雲台の総面積は、506千㎡で、1972年6月26日に地方文化財記念物第27号に指定された。釜山の「3台」と言えば、太宗台、海雲台、没雲台が挙げられる。この3台は、鬱蒼とした森と奇岩怪石に囲まれ、海と空が絶え間なく続く景色が眺められる。今は陸地とつながっている没雲台だが、昔は沒雲島という名前の島だったと言う。しかし、現在となってはなかなか想像もつかない話だ。

しかし、洛東江の河口のタデポの西南側にある海抜78mの没雲台は、以前は島であった。1763年に日本通信使を務めた趙樟は、『海擄日記』に海雲台と没雲台の景色を比較し、「没雲台は、新羅の前には小さな島で、静かな雰囲気のなかで美しい女性が花の中で身だしなみを整えている」と書いた。

そして、1544年2月の『中宗実録』でも「没雲台」に日本軍の後望処(今の監視所)でのろし台を設置することを議論した。そして、『西区誌』は、『中宗実録』の「没雲島」(今の没雲台)という記録では、昔からの名前のためそう書いただけで、中宗時代にはすでに陸地とつながっていたと言う。

しかし、釜山市が編纂した『釜山の文化財』では、没雲台が16世紀までは島として呼ばれていたと言う。それも『中宗実録』によるものだ。新羅以前と16世紀以前では、少なくても600年もの隔たりがある。一方、新羅以前を指している趙樟の『海擄日記』も、簡単にそう言ったとは言えない。それは趙樟が1757年に東莱府使に、1758年には慶尚観察使になり、1769年には通信使として日本へ渡った。その時に対馬に寄って対馬でサツマイモのつるを植えて、これを栽培する方法や保存法を学んだと言う。それを地元である東莱と済州道に普及させた。

当時1764年の東莱府使は姜必履だったが、自分より7年前に府使を歴任した趙樟からサツマイモの栽培法を学んだ姜必履は『甘藷譜』という本を出し、サツマイモの栽培法を地方の人々に指導・奨励した。こうした歴史から、東莱が韓国で初めてのサツマイモの栽培地になった。このような内容が記述されている趙樟の『海擄日記』の内容を考えると、没雲台は中宗以前まで島だったかもしれない。

没雲台という名は、洛東江の河口に霧と雲が多い日は、その霧と雲で島が見えないという意味で、雲に落ちた島という詩画のような名称を付けられた。

ここには新石器時代にはすでに人が住んでいたと思われる貝塚が残されている。文禄の役当時、釜山浦海戦で中軍将の職責だったが、釜山浦で戦死した鄭運公の業績を記した鄭運公殉義碑が、この没雲台に立っている。多大浦僉使営の客舎も、多大浦(今のタデポ小学校)に移され復元された。

洛東江の河口が海と調和し、太白山脈の一番端にある没雲台は景色がとてもすばらしく、詩人や画家の訪問が絶えなかった。没雲台の美しさをそのままに詠った東莱府使である李春元の詩、東莱府誌が伝わっているが、その詩を石に掘った「没雲台の詩碑」を1999年6月12日に沙下地域発展協議会が設立し、没雲台の美しさを伝えている。詩の内容は次のようである。

浩蕩風濤千萬里(力強い風と波 千里、万里につながっているが)
白雲天半沒孤臺(空が没雲台は白い雲に埋もれた)
扶桑曉日車輪赤(朝方の海から出てくる太陽は赤い車輪)
常見仙人賀鶴來(いつも鶴に乗って仙人が来る)

そして、我々が一般的に没雲島を没雲台と言うが、没雲島には没雲台と花孫台の2台があった。花孫台は、没雲島の南端の海に面している東側の端にある台を、没雲台は南側の端にある海に面した真ん中の台を言う。また、釜山で島が多いところも、この没雲台がある多大浦の周辺だ。はるか遠い海で釜山の沿岸を守っている南兄弟島と北兄弟島、そして、モク島、クンムン島、トン島、トンホ島、パルボン島、ソル島、オリ島、ジ島、モジャ島、ジャ島などすべて没雲島(タデ洞山144番地)とともにタデ洞に地番地籍が載せられている島だ。

文化財の現況
文化財名 現況 時代
没雲台
  • 釜山市 地方文化財第27号(72.6.26)
  • 多大八景の一つで、鶴が飛んでいく形
  • 面積 : 506千㎡
一般文化財
開放時間
区分 利用(開放)時間 備考
夏季 4月~9月(6か月) 05:00 ∼ 20:00 ※利用時間外の夜間は
軍が統制・管理
冬季 10月~3月(6か月) 6:00 ∼ 18:00